黒田九兵衛について
黒田九兵衛は創業者ZENJIRO (禅地朗) の祖先から継承される名前で、現在の禅地朗は16代目の黒田九兵衛になります。
1573年に織田信長の家臣の豊臣秀吉が初めて城持ち大名として近江国の長浜城主なった時から記録が残っています。初代の黒田九兵衛忠次は秀吉の弟の大納言秀長に仕えました。もともとは地元の黒田村を拠点とした京極家の重臣でしたが、同じ京極家の家臣だった浅井氏が謀反を起こし京極家を追放したことで、黒田家も浪人の状態でした。浅井氏を追放した織田信長・豊臣秀吉たちが破り、長浜城という新たな城ができたことで黒田家も豊臣秀吉の家臣団に加わることとなりました。初代忠次は同じ近江に縁をもち鉄砲製造も行う商人で三代茶人のひとりの今井宗久とも親交しました。地元には鉄砲鍛冶の国友衆がいて、荷物を運ぶ琵琶湖水運にも通じていた黒田家は、その後も鉄砲隊と深く関わっていきます。
その後、織田信長の死後に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦いで、名前を馳せた賤ヶ岳七本槍のひとり加藤嘉明に二代目直次は仕えることになります。加藤嘉明のもとで鉄砲隊や水軍を指揮し、朝鮮出兵や小田原攻めでも戦功をあげた二代目直次は、淡路に所領を得たのちに加藤家が治める愛媛の松山に知行地を得ます。加藤嘉明の父はもともと三河で徳川家康の家臣だったこともあり、関ヶ原の合戦では加藤嘉明は東軍の徳川家康側に味方します。同時期に、西の毛利氏が四国攻めを企んでいたことから、加藤嘉明は関ヶ原へ、黒田九兵衛直次は留守となった松山の防衛につきます。松山の三津浜に上陸した毛利軍を撃退する中で、寺に籠城した毛利軍を討ち取ろうとした時に銃弾を浴び戦死します。
徳川軍の勝利に終わり江戸幕府の体制になり譜代大名となった加藤嘉明は亡き直次を憐れんで、弟の忠直に三代目九兵衛として家督を継がせました。その後、松山城を築いた加藤嘉明は会津42万石に転封となり、以後も黒田九兵衛は付き従います。しかし、会津騒動という内紛で処分を受けた加藤家は石見吉永藩1万石に移封されてしまいます。家臣を抱えることができなくなった加藤家ですが、黒田家も一時離脱せざるを得ませんでした。その間、仕官の機会を与えたのが久松松平家でした。久松松平家は徳川家康の異父兄弟の家系で、桑名藩久松家の御物頭を務めました。
やがて、加藤家が近江水口藩主として名誉回復した際に、再び加藤家に仕え、以後江戸幕末の11代目までまで水口藩主加藤家に仕えました。5代目九兵衛直政は8代将軍吉宗の時代に御旗奉行に就任し、その際の記念に制作した名工の手による鍔が残されています。
明治以降の代々九兵衛は、軍人、児童文学者、農学者などに就いています。